100年にわたり、書を愛する方々からご愛顧を頂いている『五體字類』。 書体字典のベストセラーの歴史と魅力についての紹介。
明治44年、弊社は書道研究とその向上発展を目的に、超一流の書家や漢字学者、たとえば、高田竹山(本名は忠周)、後藤朝太郎らを集め、「法書会」を結成。会の目的は定期刊行の書道専門冊子「書苑」の発行と和漢名家の真蹟や拓本、刊本等書道界に有益と認めるものを出版することであった。
当時(ほんの1世紀ほど前のことだが)、わが国の書き物はほとんど毛筆。行書や草書の判読には苦労したという。「書体字典があれば便利だ」。そうした法書会からの発案で、大正5年12月、わが国初の書体字典『袖珍 五體字類』は生まれた。現在の『五體字類』の原型である。
「袖珍 」とは、袖 におさめるという意味で、着物の袖に入れて持ち歩くことを意味している。現在の普及版よりふた回りほど小さなサイズだった。
当時の『袖珍 五體字類』の広告文に、「一般學生は勿論、會社、銀行などにおいて事務を執る者も亦必ず一本を懐中するの要あり」という一文があり、広く一般の人々が文字の解読に活用することを想定していたことがわかる。
おなじみの『五體字類』の題字の揮毫は、明治・大正を代表する書道界主導者、日下部鳴鶴。鳴鶴は法書会の顧問だった。また、監修者の高田竹山は、漢字の原義・成立を説明する学問である説文学の大家で、大蔵省印刷局に在職していたこともあり、紙幣の文字を揮毫した。
初版『袖珍 五體字類』は大正5年の発売と共に爆発的な売れ行きを示し、書体字典といえば『五體字類』のことを指すほどまでに普及した。日本での評判を反映してか、漢字の本家、中国では『五體字類』の海賊版が出回ったという。
『五體字類』は日常生活での利用を想定した書体字典として、使いやすさの工夫はもとより、時代と共に移りゆく日常の漢字の使い方の変化にも対応していくべきであるという考えのもと、改訂を重ねている。
親文字(索引文字)は、初版では約4,500字だったものが、最新の改訂第四版では5,175字と大きく増えている。広く一般の人々の利用を想定して発刊された『五體字類』だが、書家にとってもまたとないテキストとなり、「現代の書家は全員が五體字類で育ったと言っても過言ではない」という言葉を頂戴するほどの厚い信頼をいただいている。日常の使用に適切なものを厳選した親文字、常用漢字と人名用漢字、他にも21世紀の現代における日常使用頻度の高い漢字を収載して、まさに『五體字類』は時代の要請に応えた、時代と共に歩む書体字典の決定版といえるだろう。
親文字数はこの種の字典では最大。本文中の総文字数は47,597字を収録する豊富さ。 さらに漢字の正体が多数掲載されており、正俗の判別が容易。
実用を重視した堅牢な装丁のため、数十年来使用しているというお客様からの声も多数寄せられている。文字のもつ「ちから」をダイナミックに表現した中面も『五體字類』の特徴。枠線にとらわれず、毛筆の勢いや原典の味わいをなるべく損なわないための工夫をしている。見ているだけでも楽しい「漢字の博物館」といえるだろう。
付録には仮名変体、漢字の造字および運用の原理を六種類に分類した六義解を収載。また、検索しやすい音訓索引に加え、部首に読み仮名を振るなど使いやすさを追求。なお、増補机上版ではさらに部首別索引を加えている。
書作品の制作だけでなく、草書などのくずし字の解読、ロゴやデザイン、歴史研究などに幅広く対応。
創業者の七條愷が金属版写真製版の話を聞いて出版を決意し、明治26年に西東書房を創業。写真であれば「書」には最適、英文のスペルの誤植も避けることができると考えたのだが、この方法は活版に対して、「金属版」と呼ばれた。
この方法で、「西洋」のものと「東洋」のものの両方を出版するということで社名を「西東書房」と命名。
東洋のものとしては法帖(古今の名筆を写し取ったもの)を、西洋のものとしては、手始めに「ガウスの対数表」を出版した。36桁もの対数表の場合、活版印刷では誤植の可能性があり、数学において誤植は致命的である。写真ならこのような問題はないため、出版と同時に大好評を博したが、アメリカの出版社から異議が申し立てられたことにより、以後西東書房は書道図書を専門に扱うようになり、今日に至っている。
法書会は、日本の書道の発展向上を期して明治44年に毎月一回『書苑』と題する書道専門の冊子を発行することをもって始まった。当時超一流の学者、名士からなり、事業主は西東書房創業者の七條愷。法書とは法帖のことで、法書会は文字通り書道を研究してその向上発展を目的としている。会約には、その事業として、『書苑』を発行するとともに、和漢名家の真蹟や拓本、刊本等書道界に有益と認めるものを出版することが挙げられている。法書会には十数人の幹事がおり、幹事は編集、会計などを分担し、さらに幹事とは別に若干の編集顧問がいた。『五體字類』を監修した高田竹山、後藤朝太郎は幹事で編集を担当し、『五體字類』の題字を揮毫した日下部鳴鶴は法書会の顧問であった。
監修者の高田竹山、題字を揮毫した日下部鳴鶴、序文を書いた大槻文彦についての紹介。
五體字類の監修者であり、朝陽字鑑精萃の著者。
法書会の幹事と編集を担当。
文久元年(1861年)5月9日に東京の牛込に生まれ、昭和21年(1946年)10月24日に東京世田谷の成城にて86歳で逝去。名は忠周、字は竹山または未央学人。漢字の原義・成立を説明する学問である説文学の大家。
当初書家を志し、書塾を経営していたが、明治18年以降、内閣印刷局に奉職し、紙貨幣、公債、証書等の文字の書写、揮毫を担当し、その傍ら局内蔵書の研究整備を行ない、その成果を次々と著書にまとめていった。
資性謹厳にして、重厚。義侠心に富み、非常に努力家。著書に『古籀篇』100巻、『朝陽閣字鑑』36巻(後に補正して『補正朝陽字鑑』、普及版は『朝陽字鑑精萃』)、『漢字詳解』3巻などがある。また、膨大な著作に加え、記念碑、墓碑銘などに多くの墨蹟を残し、書、文人画、漢詩なども高く評価されている。
尚、「朝陽閣」とは内閣印刷局の別称で、竹山が在職中そこでの資料をもとに成した篆書字典ゆえに『朝陽閣字鑑』と名付けられた。
五體字類の題字を揮毫した書家。
天保9年(1838年)8月18日東京で生まれ、大正11年(1922年)1月27日、85歳で逝去。 名は東作、字は子暘、鳴鶴と号した。
中林梧竹、巌谷一六とともに明治の三筆と呼ばれた書家。近代書道の確立者の一人。
書は楷書、行書、草書、隷書のいずれにも優れた技法で「大久保公神道碑」をはじめとする数多くの碑文を揮毫。また「書勢」など雑誌の刊行、名跡研究にも努めた。
法書会の顧問であり、『五體字類』の題字を揮毫。五體字類の表紙に「鳴寉老人署」となっているのはそのためである。
門下に「鶴門四天王」と呼ばれる丹羽海鶴、比田井天来、近藤雪竹、渡辺沙鴎のほか、山本竟山、田代秋鶴などがいる。
五體字類の序文を書いた国語学者。
弘化4年(1847年)11月15日東京で生まれ、昭和3年(1928年)12月22日、80歳で逝去。 日本初の近代的国語辞典である『言海』の編纂者として有名。